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支援の現場から② ナマケモノ?のBさん

 第2回目は、ナマケモノ?のBさんです。

 ※個人情報等については加工しています。

 

1.ケースワーカーより入所依頼

 「ボランティア団体の人が付き添って、福祉事務所の窓口にやってきたひとがいる。とりあえず、いまはコロナ感染者用のビジネスホテルに泊まってもらっている。すこし生活が落ち着いたところで就労指導をしようとはじめたが、進展がまったくみられない。(コロナ対策用)ホテルの利用期間が満期を迎えるので、入所先を探している」と、福祉事務所が閉庁する17時前に、一本の電話がかかってきました。これがBさんとの関わりのはじまりです。

 

2.生計困難者や生活困窮者を支える制度的なしくみ

 後段の※1を参照してください。

 

 3.地域の特徴を知る

 東京都23区のうち、とくに江東5区(足立区、江戸川区、葛飾区、江東区、墨田区)と呼ばれる地域は、江戸時代から続く下町エリアと重なり、歴史的な経緯を色濃く残しています。

 私たちの活動している地域のひとつである墨田区は、山谷や上野という地域を抱えた台東区と隅田川を挟んで隣接しています。

 隅田川沿いや上野公園周辺は、いまでも住まいを失った人や生活に困った人たちが流れ着く場のひとつでもあります。そのため民間のボランティア団体や医師、あるいは公的機関の職員や行政機関から委託を受けた社会福祉職員などが声がけを行っています。そうした支援者たちだけではなく、手配師と呼ばれる人たちが人夫集めや生活保護を受給させて福祉施設に収容/あっせんするために声がけする場合もあります※2。

 さて、そんな時間と空間を抱えこむ台東区のお隣さん墨田区も、おすまし顔で高みの見物、というわけにはいきません。国技相撲の両国やスカイツリーを抱える屈指の世界的観光スポットだけではなく、住まいを失った少なくない人たちが、全国から流れ流れて、隅田川沿い高架下や公園といった場所に集まってきます。外国旅行客が風光明媚な観光地として闊歩する同じ場所の片隅を、目をこらして見てみれば、自らの姿をさらして暮らさざるをえない人たちが、いまもひっそりと生活しているはずです。

 Bさんも、そんな人たちのひとりでした。支援団体職員と同行して福祉事務所にやってくるまで、台東区と墨田区の公園での寝泊まりを繰り返していたそうです。

 Bさんの相談をうけた頃、日本はコロナ感染者が高止まりしており、オリンピック観戦旅行者向けビジネスホテル等をコロナ感染者向け施設として転用する施策が執られていたため、まずはこのビジネスホテルに宿泊できました。福祉事務所としては、落ち着けばすぐに就職できそうだと判断していたのですが、実際には足取りが重く、気がつけば退去期間が迫ってしまったそうです。

 

4.生育歴の聞き取り

 面談時の第一印象は、口数少なく、「ぽつりぽつりと話す人だなぁ」というものでした。Bさんによると、野宿生活を過ごしていたときに腰痛と両足痛がひどくなり、心配してくれた路上生活者が教えてくれた、“山谷の無料診療所”で診てもらいました。山谷には、全国でも唯一ではないかと思われるほんとうに医療費無料の診療所(無料低額診療所/NPO法人山友会が運営)があります。

 この診療所で診てもらったときに「生活保護を受給するよう」勧められたそうです。

 数日間悩んだあと、勇気を出してひとりで台東区の福祉事務所まで行き、生まれて初めて生活保護の"相談"をしました。ところが、「生活保護をもらえるようになるまで約1ヶ月はかかる」との説明を受け、諦めて帰ってしまいます。実際には、実施機関は、"申請”から14日以内に返答する法的義務があるはずです。この回答が本当だとすれば、問題がありそうです。が、そこはまぁ煮え湯を飲まされつづけてきた台東区さんですから。

 しかたなく公園に戻り、ふたたび野宿をはじめたBさん。そこに今度は、支援団体のボランティアさんがやってきました。事情を知ったボランティアさんが台東区福祉事務所に確認すると、「そもそも生活保護の"申請"を受けつけていない」と回答されてしまいます※3。あきれたボランティアさんが掛けあったものの取りあってもらえず、しかたなく、お隣区の墨田区福祉事務所に「相談せざるをえなく」なってしまったというのが、今回のご縁のはじまりです。

 

 BさんはC県で生まれました。幼少の頃から小学校までは父の仕事の都合により各地を転々としていましたが、最終的には、I県に落ち着くことになります。

 I県内の高校を卒業したあと、ガソリンスタンドでバイトをはじめます。コツコツと貯めたアルバイト代で運転免許を取得、トラック運転手として働きはじめることができました。

 ところが、長時間運転姿勢を保っていたために、20代半ばに、腰痛を抱えてしまいます。30歳ころには、自動車の運転ができなくなるほど痛みがひどくなり、退職せざるをえない状況に追い込まれてしまいました。 

 しかたなく実家へ戻り、両親と同居生活をはじめます。幼少期は工場の一室を間借りしたり、社宅に住んでいました。実家に戻った頃の両親は、公団団地(現在のUR団地)で生活していました。

 それから42~3歳までは、収穫期の春と秋だけ、知り合いのつてで紹介してもらった市場での積み下ろし作業を手伝う仕事をはじめます。寡黙でまじめに働くBさんなので、正社員の誘いもあったそうですが、荷下ろし作業が腰に多大な負担をかけるため、長時間は耐えらず、断らざるをえなかったそうです。

 しばらくして父親が亡くなり、母親と2人暮らしとなります。10年以上一緒に生活をしていましたが、母親の健康状態が徐々に悪化していき、要介護判定がでたことを機に、親戚が引き取ることになりました。

 Bさんはそのまま1人暮らしを続けていましたが、団地の取り壊しがあったため、お詫びを兼ねた退去料を受け取り、別の団地に移り住むこととなりました。

 引っ越してから初めてむかえる夏、事件が起こります。同じ団地に住んではいるものの、かかわりのない集団に、「あいさつがない」「にらんできた」等の因縁を団地敷地内でつけられ、暴力を振るわれたのです。恐ろしさのあまり、とっさに部屋から身の回りのものを持ち出すと、そのまま自動車に乗り込み、隣県のネットカフェや国立公園等の無料駐車場を転々とする車上生活をはじめます。

 現実は、映画「ノマドランド」のような貧しくとも器用な生活、というようにはいきません。父親の遺産と団地の退去料を切り崩し、食いつないできた生活費も2021年頃に尽きかけます。ガソリンを節約しているうちにエンジンがかからなくなり、自動車をその場に放置するしかなくなってしまいます。

 そんなとき、自動車のラジオで聞いた“炊き出し”のことを思い出し、台東区周辺の炊き出しに参加することを思い立ったそうです。

 残りわずかのお金でいけるところまで分の電車切符を買い、そのあとは、台東区内の炊き出し会場まで歩いて、なんとかたどり着きます。Bさんは、炊き出しの列に並んでいた参加者のあとを追い、見よう見まねで路上生活を始めました。

 路上生活も、お気楽にできるというものではありません。行政関係者から立ち退きを命じられたり、ベンチで寝ていたときに置き引きにあい、身分証などを紛失してしまう経験もしました。1カ所にとどまって生活するといわゆる”刈り込み”や見知らぬ人から危険を受けることを身をもって学んだBさんは、台東区と墨田区の公園を転々とする"工夫"をはじめ、そしてようやく冒頭のはなしへと戻ります。

 

 5.生活課題を明らかにする

 私たちは面接のときに、「やり-とり」ということばを使って、職員が気になったことや違和感を取り上げていきます。「やり-とり」とは、質問と回答が外れずてれいないか、噛みあっているか、とんちんかんだったり見当違いの発言や行動がないか等について、職員の支援感覚を基準として、おおよその見当をつけていくための判断基準のことです。この「やり-とり」をとおして気になった点とその理由を、以下にまとめてみます。

 

 ①とても「ゆっくり」「短い説明」をすること

  →たんに朴訥としているだけなのか? それとも発達上の障害特性のようなものが背景にあるのか?

  →見た目や話しかたから判断すると「ふつう」の中年男性に見えるため、たしかに就労もできそうな印象を受けます。 これは就労可否の判断を医師に診断してもらう必要がありそうです。

 

 ②自動車を放置したまま、他人事のように語ったこと

  →これは速やかに解決の目途を立てるべき項目ですが、本人の話しぶりはどこか他人事のようなはなしかたでした。

   この違和感が③の疑問へとつながります。

 

  ③問題が起きると放置したり、回避して、結果的に逃げることで「解決」したことにしているか?

  ・トラブルがあるとそれを放置し、逃げだしてしまう傾向があるように見受けられます。

  →だとすると、ふつうの意味で、問題と向かい合い解決することが「面倒くさい」から「しない」のか? それとも「できない」のか?

  →もし「できない」とすると、 その阻害要因としては何があるのか?

 

 ④腰痛、両手両足のしびれ等の問題はどうなっているのか?

  →放置すればますます悪化し別の病気等に波及していく恐れがあるため、すみやかに医療につなげる必要がありそうです。

 

 ⑤母親や親族関係とのつながりはどうなっているのか?

  →この問題は取り扱いが微妙なため、あえて深入りする質問はせず、Bさんが話題に及んだら、確認することにします。

 

 6.支援方針の設定と実施方法

  次に、取り上げた項目のうち、どの項目を生活課題として設定し、どのように取り組んでいくのか。支援方針の設定とその実施方法を決めていきます※4。

 Bさんの場合は、車上生活を続けたあと、さらに路上生活に突入しています。こうした経緯からして、精神的にかなり追い込まれた状況に自らをさらしつづけ、生と死(自死)の境目をさまよい、ぎりぎりの気力で生き抜いてきたのではなないかと見立てられます。こうした環境適応のために、人は、意識せずとも緊急モードとしての無気力モード(省エネ・低受容低反応)になることがありえます。

 そもそも路上生活は、多大な精神的な負担を課します。先に述べたとおり、外部に自分の生活のすべてをさらけださざるをえないからです。他者から白い目や蔑むような視線で刺されたり、暴言を吐きかけられたりするだけでなく、場合によっては、石を投げつけられたり、放火されたり、命の危険を伴う暴力を振るわれたりすることも珍しくありません。害虫等の問題もあります。

 こうした環境下で生き残るには、あたかも心にバリアーを張るように、あえて意識を朦朧とさせ、他人の視線や気持ちを感じなくなるようにこころを「緊急モード」へと切り替えるわけです。体臭も野性的な匂いにかわってきたりすることさえあります。

 ですが、この緊急モードへの切り替えは、もはやもとの元気な状況に戻らなくなる、という諸刃の剣のような機能でもあるようです。

 以上のように、直近の生活環境から心理的な過重負担があるのではと見立てられるため、すぐに就職やアパート転宅につなげるのではなく、まずは心身を安定させて、"ふつう"の生活、社会生活になじんでもらうことを総合的な支援方針として設定しました。

 この方針に従ったうえ、特に、すみやかな医療機関受診、及び、自動車撤去を行っていくことを提案します。

 他方で、福祉事務所のケースワーカーさんからは「福祉事務所は就労できる方だと判断している。半福祉半就労の状態になったらアパート転宅を検討する」との方針を伝えてもらいました。半福祉半就労とは、生活保護の利用ができなくなるまで働いて収入を得るのではなく、仕事で収入を得つつも足りない生活費は生活保護費で補うかたちで本人の生活を支えていく方法のことです。

 施設側と福祉事務所側で意見が異なる場合、私たちは、生活保護法の趣旨を尊重し、処遇権限を有する福祉事務所側の方針に従います。

 

 7.支援展開

  以上の方針に従い、支援を実践していくことになります。大まかな支援経過を月単位でまとめ、振り返ってみます。

 ○12月

 当初は生活が安定してきたら、医療につなげ、それと平行して自動車撤去の手続きを進める段取りを予定していました。

 ですが、施設入所当日から問題が起きます。

 福祉事務所で集合する約束をしていたのですが、待ち合わせの時間になってもあらわれません。ケースワーカーさんに取り次いでもらい、利用しているビジネスホテルに電話確認してもらいます。

 「本人はいないが、荷物はまだ部屋に残っている」とのことでした。向かってる最中なのかもしれないと考え、1時間ほど待ちました。ですが、それでもあらわれなかったため、しかたなく職員は施設に帰ることにしました。

 職員が帰寮したあと、すぐに担当ケースワーカーから電話が入ります。「いま、福祉事務所にやってきた。すぐ自転車で、そちら(施設)に向かわせる」とのことでした。

 Bさんが施設に到着したあと、約束を守れなかった理由を確認します。「福祉事務所にはいった。5分待ったけど声をかけられなかったので、帰った」と、あっけらかんというか、まるでBさんのほうが被害者というような口ぶりで説明がありました。

 社会常識を理解できるか確認する意味も含めて、「福祉事務所に到着して約束の時間が来れば、ケースワーカーさんに到着したことを伝えるのが「ふつう」のことだと思います」と、説明してみました。ですが、Bさんにはその感覚は通じず、むしろケースワーカーさんがBさんに声がけするべきであり、面倒をみるべきだという考えにこだわり、かたくなに譲りませんでした。 

 この「やり-とり」をとおして、社会的なルールを伝えていくところからはじめていく必要がありそうだ、という課題が見えてきました。これまでだれも自分を助けてくれなかったという、社会に対する恨みの感覚が、この課題の背景にあるのかもしれません。

 つづけて所持品について確認すると、「まだホテルにある」と、まるで他人事のような口ぶりで返答がありました。

 しかたなく、職員2人とBさんで社用車に乗り込み、ビジネスホテルまでとりに出かけます。荷物を施設の居室まで運び込んだあと、「ホテルのお金(代金)ってどうなってるんだろう?」「電話でケースワーカーさんに怒られたから、質問するの忘れた」とぼそりとつぶやきました。「質問しにくいと思うので、明日、ケースワーカーさんに聞いておきます」と伝えます。

 

 一連の「やり-とり」から、もしかすると長期ひきこもりの背景には発達障害のような課題が隠れているのかもしれない。あるいは育児放棄等の生育環境によって、社会常識が身についていないというような可能性も見立てられそうです。

 そうだとすれば、やはり「就労よりも社会参加に必要となる社会常識を身につけることの方が優先順位が高い」と見立てられます。その旨ケースワーカーさんに伝え、支援方針の再考を促します。その結果、施設側が提案した方針で進めることの了承をえることができました。尚、ホテル代は「役所で支払うのでBさんの自己負担はない」旨、確認できました。Bさんに伝えておきます。

 これで今日の業務は「おわり」という矢先、またBさんから相談がありました。

 「お米の研ぎ方がわからない」。帰宅前なので、「やりかたは明日説明するとして、今日は職員が代わりにお米をとぎましょうか?」と提案してみます。ところが「自分でします」と言い切られてしまいます。その言葉には強い意志を感じざるをえませんでした。しかたなく、お米の研ぎかたを教えることにしました。

 これで職員の苦労が報われるかといえば、そうでもないことはよくあります。1週間後、お米が研げるようになったか?確認したときのことです。「まだ食べ物(レトルト食品)が残ってるから(そもそも炊飯は)やってない」とのことでした。だとすれば、次の日に教えてもよかったことになるはずです。あのときの真剣な言葉は何だったんだろう。

 続けて、入所2日目のはなしに戻りますが、転出届の郵送取得のしかたについて説明もしたときも同じようなことがありました。事務的なことがらなので「職員が代行することもできる」と提案したのですが、「自分でやる」の一点張りでした。やり方を丁寧に伝えます。

 そのうえで年末が押し迫った頃、状況を確認したときのことです。「まだやってない。いまは年末だから役所開いてないっしょ」と、なんでこんな時期に質問してくるのかというような口ぶりで返答がありました。

 

 ○1月

 ・年が明けて落ち着いてきたので、住民登録手続きをあらためて確認しながら行うこととしました。

 ・月末にやっと転出届が到着します。同日付で住民登録完了はできたのですが、なぜか国民健康保険証も発行していました。生活保護を受給している場合、国民健康保険は利用できません。利用すると医療費全額を支払うペナルティーが科されてしまします。すぐに返納してもらいます。

 ・いろいろ試行錯誤を繰り返しているうちに職員に対する信頼感が醸成されたのか、月末頃には、被害者意識の強い発言がかなり減り、職員の助言を素直に受け取るような変化がみられてきました。

 ○2月

 ・アパート転宅についてケースワーカーより照会を受けます。「放置している自動車の処分手続きの目途がたったらとしたい」と回答しました。

 ・マイナンバーカードを再発行できました。当初は「自動車の中にあるのになんで再発行しなければならないんだ?」と拒否的な反応を示していたのですが、この頃は職員の発言も素直に受け取ってくれ、再発行につながりました。

 ・写真付きの身分証もできたので、アパート転宅したいか質問してみます。「自動車(処分)のことで頭がいっぱい」「いまは仕事のこともアパートのことも考えられない」とのことでした。ケースワーカーさんにもその旨、伝えます。

 ・身分証ができたので携帯電話契約をしたいと希望がありました。職員が予約電話をいれて、Bさんひとりで外出します。帰寮後、「「通帳とはんこがないと携帯電話が作れない」といわれた」としょんぼりした様子で教えてくれました。

 ・そこで、キャッシュカードの再発行を行うこととします。身分証があったのでスムーズにはなしは進みました。

 ・このころまでに、だんだんとBさんの人となりが見えてきます。自分で納得できないことは認められないようですが、試行錯誤をとおして、自分で訂正、修正できるように感じられます。

 ・むかし住んでいた税務署から督促状が届きます。受給証明書を郵送して猶予してもらうよう伝えると、すなおに手続きをはじめました。

 ○3月

 ・やっと念願のスマホを入手しました。ところが数日後、「不正サイトにアクセスしたから、どうすればよい?」との相談がありました。初期化して様子を見ることを提案します。結果的に、それで問題解決しました。

 ・お湯ポッドを空焚きしてしまうことがありました。空焚き防止機能があったので火事にはなりませんでしたが、厳重注意します。無表情に近いのですが、素直に聞いて、反省してくれました。

 ○4ー5月

 ・この頃にはいると、Bさん自ら申し出があり、施設の備品補充を手伝ってくれるようになります。事務所までやってきて、職員とも雑談してくれるようになりました。

 ・関係が良好化しているこの期を捉え、廃車手続きに着手することを提案します。はじめると、路上生活時に貴重品盗難にあっており、自動車の鍵も盗まれていることがわかりました。解錠手続きを手配する必要があります。業者を調べ、こちらで連絡しましょうか?と提案すると「自分でやります」とのことでした。そこで手配先だけ伝え、日程調整等については、本人に任せることにします。職員は、廃車手続き代金についてケースワーカーと協議しておきます。事前に根回しておいた翌日、Bさんとケースワーカーさんとで話し合いを行ってもらいます。法テラスを利用して対応することも決まりました。

 ○6-7月

 ・「車上生活や路上生活が長いので、施設での集団生活や規則を守ることに精神的な負担を感じる」と、このころから心因性の訴えがみられるようになります。

 ・はなしを聞いていくと、どうやら職員やケースワーカーから、廃車手続きを進めるように促されることが負担になっていることが明らかとなりました。ケースワーカーに連絡し、「路上生活がなかがったため、自己肯定感が低く、行動すること自体に心理的な負担が強くかかっているようです。性急な促しを続けると、希死念慮を誘発し、自殺企図に及ぶ可能性を否定できない」との見立てを情報共有します。

 ・希死念慮の可能性があらわれているため、医療へつなぎます。時間をかければ、自分の気持ちを自分のことばで説明できるBさんの特性にあう心療内科を探すことにします。施設職員及び関わりのある訪問看護ステーション職員等と話し合い、亀戸にある精神科クリニックに決め、同行受診することにしました。なんとか月末までに初回受診予約が取れました。

 ・トイレにトイレットペーパーではなくペーパータオルを入れた利用者さんがいて、トイレの水あふれてしまいました。Bさんが何も言わずに掃除してくれたことがわかります。感謝の言葉を述べ、お礼の差し入れ(食べ物)をします。

 ・心療内科に同行受診したときの、受診結果は以下の通りとなりました。

 ・長谷川式17点。認知機能の低下が著しい

 ・強い不眠(3時間/日)
 ・薬の効きが悪い。
 ・30代に幻覚症状有り。
 ・以上よりドラッグなどによる影響の可能性が高い
 ・親の仕事の影響でシンナーを吸いこんでいたことが原因かもしれない。
 ・栄養不足による可能性もあるのでビタミン剤を処方して様子を見る。
 

 8ヶ月目にして、やっと職員が感じていた違和感の原因が明らかとなりました。幼少期から両親の従事していた自動車整備工場でシンナーを吸い込みつづけた結果、薬物(シンナー)中毒と同じダメージを脳に受けていたのです。

 知的障害のような特性印象は受けないのに、なぜか「なまけもの」のように感じてしまう理由は、本人のせいではなく、本人の置かれてきた環境によることが明らかとなりました。

 福祉事務所にもすみやかにその旨報告し、情報共有します。担当ケースワーカーも深く納得してくれ、援助方針の見直しを支持してくれました。

 

 ○8月

 ・薬物依存(シンナー)後遺症という診断結果をふまえ、薬を変えた結果、「眠気が出るようになったが、薬が効きすぎて昼夜逆転してしまう」と相談がありました。医師あてに手紙を書き、渡すように伝えます。

 ・他の利用者が自分のことを監視しているという相談がありました。精神的な不安定さから統合失調症の初期症状が発現したかと心配します。心当たりのありそうな利用者さん複数人に確認してみると、「そんなことやってないですよ。確かに夏なので窓と扉を開けて風通ししてはいます」とのことでした。Bさんの勘違いだとわかりました。

 〇9月

 ・他の利用者さんから「監視されているような気がする」との相談が続き、そのたびに事情を説明することを繰り返しました。精神科クリニックにも情報共有したら、処方薬が増えることになりました。

 ・もしかすると、他利用者さんの視線が、逃げ出した団地のときに受けた暴行の記憶を刺激して誘発し、PTSDのトリガーのように働いているのかもしれません。

 〇10月

 ・やっと法テラスの相談が実現しました。ところが、「行政に相談するように」との助言で終わってしました。「自動車のなかにある荷物も取りに行きたいし、自動車処分もしなければならない。いっぺんにできない」と、パニックになって、職員に度々相談しにやってきます。自分の不安さを職員に伝えることで、精神的な安定をえているのかもしれない、Bさんなりの対処療法なのかもしれないと職員間で確認し、相談ばなしは何度でも聞くこととしました。

 自動車処分については、進めかたの優先順位がつけられずに混乱している様子でした。そこでまずはT県駐車場に行き、ナンバーと車種を確認すること②駐車場のある道の駅に問い合わせること。の順番で進めていくことを、Bさんとの話し合いで決めました。

 〇11月

 ・「障害者手帳を取得したい」と申し出がありました。突然の依頼についてその理由を聞くと、「周りの利用者さんや(福祉事務所等の)関係者は、みんな自分のことを普通の人と思って接している。だから「病気がある」という証明ができるようにしたい」とのことでした。精神科クリニック受診から6ヶ月経過し、今後も中長期的な通院が見込まれるため、自立支援医療と障害者手帳の取得ができるはずです。医師に相談して、まずは診断書を書いてもらうように助言します。

 〇12月

 ・「自動車を確認しにT県に行ってきた」と報告がありました。すると、自動車は盗まれており、なかったそうです。警察に盗難届を出してきたとのことでした。来年の1月に、あらためて警察と事情聴取をすることになったそうです。

 

 〇1月

 ・「警察に事情聴取を受けた」と報告あり。「「保管料を払え」とも言われたけど、「生活保護受給中だから払えない」と答えた」とのことでした。

 ・この時期、ケースワーカからあらためてアパート転宅について確認がありました。「施設での生活を評価するかぎり、一人暮らしは可能だと判断している。他方で、主治医からは「認知機能の著しい低下」と判断されているため、主治医にも確認してほしい」と回答しました。ケースワーカーから「主治医に「都営住宅の申し込みを許可する」と言われた」と報告がありました。施設で優先的に都営住宅に申し込める特別割り当て制度の申し込みを進めることとします。Bさんにその旨提案すると、「まだいいや」とのことで、いましばらく施設の継続利用をつづけることになります。

 ・自立支援医療証が発行されました。

 〇2-4月

 ・ベッドから立ち上がったら「冷蔵庫を傷つけた」と報告がありました。どうして転んだのかについては、「記憶がない」とのことでした。通院するよう提案するも、「考えておく」と述べるだけで、通院する気がないのは明かです。通院すれば冷蔵庫を弁償しなくてよいが、通院しないなら弁償してもらうと伝え、ことの重大さに気づいてもらえるよう促します。「受診します」と申し出てくれました。

 ・通院後、「問題なしといわれた」と報告がありました。結局何が問題かはわからずじまいです。

 〇5-6月

 ・ふらついて、壁に手をひろげてつき這うようにしていたので声がけする。「睡眠薬を飲むとそうなる」とのことでした。

 ・医師より「障害手帳申請のはなしがあった」と報告がありました。診断書を入手して、保健所に申請します。

 〇7月

 ・「血圧が高いからか、イライラがおさまらない」と報告がありました。

 ・「下痢が続き、体が寒いのに汗がだらだら出る」と報告がありました。通院すると胃腸炎と診断されたのことです。

 〇8月

 ・ふとん乾燥機を生まれて初めて使うことになりました。使い方を教えます。「ふかふかして気持ちいい」と喜んでいました。

 ・ついに都営住宅の申し込みを行う決断をします。転宅後に」相談相手がいなくなることが不安だ」との相談がありました。「障害者手帳があれば社会福祉サービスを受けられる。その調整をおこなうので安心してほしい」と伝え、社会資源の利用調整を行います。

 〇9月

 ・江東区にある都営住宅当選しました。引越しのための準備に取りかかります。

 〇10月

 ・「自転車のタイヤをパンクさせられた」と報告がありました。都営住宅当選に対する嫌がらせかもしれません。弱い人は弱いがゆえに弱い人同士で仲良くするというのは幻想です。監視カメラを設置することにしました。

 〇11月

 ・JKKから入居手続き関連書類が到着し、本格的な手続きに入ります。一緒に引越業者を手配し、引越しが具体的になってきます。

 〇12月

 ・都営住宅の最終申込書類(入居許可証)が到着します。手渡してから30分後、「めまいがする」と感じ、自ら救急車を呼び、近くの病院に搬送されます。ですが、医師から「睡眠薬が合わなかっただけ」と判断され、施設までとぼとぼとひとりで歩いて帰ってきました。

  しかし、いままでと同じ薬を服用しているので、虚位になって「合わない」という説明は不自然です。思い返せば、都営住宅の最終申込書を手渡したあと、体調が悪くなっています。心因性の可能性ありと判断し、「喜びよりも不安が募ったのではないか?」「もし、不安なのであれば次回も申し込めるので、今回は辞退すればよい」と伝えてみます。少し考えたあと「やっぱり都営住宅は辞退したいです」と辞退の申し出がありました。

 辞退する旨、窓口の東京都担当者等に報告します。さいしょは施設側が利用者をアパートに引っ越しさせないよう囲い込もうとしているのではないかと疑われたのですが、事情を説明すると納得してくれました。辞退届と一緒に許可証も返送します。

 〇1-3月

 ・これまでもふらつくことが度々あったのですが、「てんかんがある」と、ケースワーカーから情報共有を受けました。これまでの不自然なふらつきについて納得するとともに、さまざまな医療機関が「問題なし」と診断を下してきたことにいらだちを覚えます。

 本人に病識がなかったため、施設側で把握できるまで、2年3ヶ月もかかりました。ケースワーカーからの情報共有がなければ、ずっと「睡眠薬があわない」という本人の理解のままにとどまっているところでした。

 〇4-6月

 ・Bさんが施設内の階段で転倒して後頭部をぶつけ、墨東病院に救急搬送されます。

 ・てんかん発作が原因ではないかと見立てられるので、施設異動を検討するとともに、とりあえず2階から1階に異動してもらうことにします。

 〇7月

 ・「頭がぐるぐる回る」「新しい家電の使いかたなどに慣れない」「最近精神的にもぱっとせず、憂鬱な気持ちが続く」と相談ありました。たしかに、他の社会福祉施設のように福祉計画のもとに施設を整備する枠に含まれず、東京都が所管の施設整備補助金に予算がついたこともないため、私たちの施設は既存の建物を転用するしかありえず、設備に限界があります。表情や雰囲気も不穏で暗く陰鬱な印象を受けるため、訪問看護を導入してほしいと医師に提案します。

 ・念のため脳神経内科を受診し、MRIを撮影してもらいましたが、問題はありませんでした。

 ・このころ空き室ができたので、2階から1階へ異動してもらいます。すると「居室のつくりがあわない」「もとの居室に戻してほしい」と相談がありました。見知った利用者のいる階から異動したためか、環境に慣れないようです。てんかん発作があり、階段から転倒した事実があるので、当会施設では1階のみ利用とし、もしあわなければ別団体の施設へ異動してもらうしかないと回答します。「もう少し利用してみる」とのことでした。

 〇8月

 ・最近利用できるようになった訪問看護から、以下の報告がありました。

 「死にたくなり「自分には価値がない」「自殺のことがずっと頭から離れない」」

 訪問看護からみても、無言の状態が長く、食欲不振もみられるので対応が必要との認識でした。

 ・Bさんからも「入院したい」と報告あり。土曜日だったため、週明けにグループホーム入所の調整を速やかに行う旨、約束します。

 ・翌週には「頭のモヤモヤ感か継続しており、希死念慮から首つりや飛び降り等の発言がみられるようになった」と訪問看護から情報共有がありました。

 緊急体制が必要と判断し、訪問看護も週3回導入、訪問看護をとおして主治医にも現状報告をしてもらいます。区長同意での医療保護入院手続きの段取りをつけるため、ケースワーカーに特別指示書作成のお願いをします。

 ・2日後、クリニック受診をして、入院判断を行います。

 ですが、結論としては、入院は保留となりました。閉鎖病棟に抵抗があるからだそうです。そのかわり緊急支援体制を維持することになります。訪問看護については毎日診察するとともに、夜間対応体制をとります。入院が必要と判断すれば、即時入院できるように病院も確保してもらいました。

 ・1週間経過後、訪問看護より「「毎日訪問看護を受け、質問されつづけることが辛い」と言われた」と相談がありました。結論として、訪問回数を週3回に減らして、様子を見ることとします。

 ・食欲の低下が激しく、(1日のあいだに)菓子パン2つ食べるのが精いっぱいの状況に陥っていました。入院を提案しますが、「精神病棟」と「隔離病棟」ということばに強い拒否感を感じてしまうそうで、なかなか同意がとれない状況が続きます。

 ・ポカリスエットと高栄養ドリンクを併用するよう助言して、様子を見ることにします。

 ・施設側では、「2階から1階に異動したことに対する嫌がらせかも?」ということも考えました。

  この点について直接質問すると、「環境変化になじめないだけ」とのことでした。「今回の回答を信用します」「不安があればはなしを聞く」と伝えます。喫煙所でBさんもまじえてばかばなしをして笑い合えるようになりたいと申しぞえると、快諾してくれました。

 ・8月最終週に入り、訪問看護と施設職員の説得によって、ようやく「病院に入院してもよい」とBさんが同意してくれました。

 

 このブログを記載している段階では、Bさんの意向を汲んで、なるべく開放的な病院を探したいと考えており、入院先の病院が確保できるまでは施設利用してもらっている状態です。

 

 

 

 ※1生活困窮及び生計困難者に対する支援制度

 生活に困っている人に向けた仕組みについてふれておくと、生活保護法では、生活保護を受給するにあたっては「原則、居宅支援」ということになっています。

 ですが、現在住んでいる家賃が生活保護でまかなえる家賃に合わない(つまり、家賃が高い)と、生活保護費でまかなえる家賃内のアパートへ転居指導が行われたり、そもそも法律的に住む場所として見なされていないことろで生活している人、例えば公園や路上だけでなくネットカフェやレンタルオフィスなど、に対しては、住所不定という扱いとなります。この場合、公的機関か民間が運営する各種施設へいったん入所することになります。生活の安定を図り、あるいはふたたび就労して経済的な自立を目指したり、民間アパートへ引っ越すことを目指したりすることになります。

 公的な支援施設としては、自立支援センター(東京都や神奈川県横浜市等主に都市部で運営されており、根拠法は生活困窮者自立支援法、むかしはホームレス自立支援法によりました)や、第一種社会福祉事業としての厚生施設や救護施設などがあります。民間施設は、おもに第2種社会福祉事業の無料低額宿泊所が受け皿となります。私たちもこの無料低額宿泊所の届出をして支援施設を運営しています。ちなみに第一種社会事業とは、自治体や社会福祉法人、あとは日本赤十字社しか運営できない社会福祉の事業のことで、第二種社会福祉事業は、個人や各種法人でも運営することができる事業のことを言います。

 

※2地域特性のはなしの続き(個人の感想です)

 隅田川の西側に位置する台東区には、日本3大ドヤ街と呼ばれる山谷や、上野という国内屈指の芸術文化空間であると同時に、ひとのあらゆる業と欲を体現する情念の場があります。幕末の混乱から敗戦直後、そして現在に至るまで生活に行き詰まった人たちを受け入れるだけではなく、浅草第六区の猥雑さを含めた大衆芸能、池波正太郎先生に代表される江戸情緒、浅草寺を中心とした神社仏閣、戦後混乱期に生まれた闇市、在日社会、反社会的勢力がいまも闊歩しているなどなど、とにかく人の世の矛盾が共存する空間が広がっています。世界的に見て、これほどせまい空間に、高尚なものから大衆的なものまで歴史、文化、欲望や暴力が重層的に集積している空間は、そうは見つからないのではと感じますが、このはなしはここまでとしておきましょう。

 

※3 生活保護申請についての小話

 ひと昔まえには「どこで夜を過ごしたのか」、直前の宿泊地によって生活保護申請のできる福祉事務所を決めるという、いわゆる前夜地ルールというものがまかりとおっていました。福祉行政の現場を回していくうえで、実務的には便利なルールだったようです。特定の区に生活保護申請者が集まらないようにするための工夫なのですが、実際には、病院や施設がある下町では、この方法が裏目に出ることが少なくありませんでした。自区で生活保護の申請を受けつけず、受けつけても他区に押しつける、もとい他区に管理を移管させることを"落とす"などと言ったりします。「また、落としてきやがって千〇田区、港〇区、〇央区!(怒)」というように使います。そのとばっちりを台東区をはじめとした下町区は押しつけられたり、下町区のあいだで押しつけあったりもしています。現在は、法的根拠がないため、禁止されているはずです。

 有名大学を卒業した公務員も少なくないのですが、知識が乏しかったり理解力が低そうな相手に対しては、Bさんの例のように、その優秀な頭脳を容赦なく相談者に向けたりすることもあります。たとえば世〇谷区福祉事務所のように「泥棒でも自分で生活費を稼いでいるのに、あなたは国に頼る(生活保護の申請相談をする)のか」と発言して、追い返えされたはなしを当事者から愚痴られたことも、いまでは懐かしい思い出です。思い出のはずだと願いたい。

 このようなことをつまびらかにすると感情的に反応するかもしまれません。ですがこうした対応は、デタラメになされているわけではないはずです。その地域の地域性、具体的にいえば、そういう対応を認める地域代表の代議士がおり、支持する世論があるのではないかといえます。言い換えれば、法的に問題だとしても、それがその地域の民意なのであれば、行政的には正しい対応であることは認めざるをえません。つまり、民度の問題です。

 少なくとも墨田区や葛飾区では、いまのところはどのような相談者に対しても、親身に丁寧に相談に乗ってくれるはずです。

 

※4 支援と援助の違い

支援方針と援助方針は異なる概念として用いられることがります。支援方針は、本人主体で取り組むべき課題をあきらかにするという意味になります。援助方針は、関係者など本人以外がとりくむべき課題を設定する場合に用いることになります。少なくともこの例にならい、私たちは支援と援助を区別して考えています。

 

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コメント: 1
  • #1

    のぶた (土曜日, 14 9月 2024 08:58)

    投稿ありがとうございます。
    一般企業で会社勤めしている40代です。

    拝読させて頂きました。クライアントの問題をアセスして問題解決に向かっていく専門家のようなお仕事を地道に全う頂き敬服です。

    貴殿の活動は、医師、弁護士、会計士、企業再生コンサルなどと比べても劣らず、クライアントの何十年もの習慣・性質まで内在したから起こった超難問に立ち向かう「個人再生コンサル」のようなものと理解しました。

    社会は多種多様な人間で構成され一定のストレスがある中でも、お互い尊重して安寧に生活できることが喜ばしいのですが、Bさんのみならず一人ではどうしようもない状況にある方々が前向きに生活できることを願っています。