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支援の現場から③ ヤマの男Cさん

  第3回目は、ヤマの男Cさんについてです。

  ※個人情報等については加工しています

 

 1.支援の経緯

 いつものとおり、福祉事務所より入所依頼の電話が入ります。

 コロナ感染で不要不急の外出が制限され、日本中が不安になっている令和5年のはじめ、Cさんはひとりで墨田区福祉事務所まで相談にやってきました。

 2~3ヶ月前から、両国付近の河川敷で路上生活を過ごしてきたそうです。いつのまにか顔見知りとなった東京都建設局の職員から「顔色がおかしい」と指摘され、Cさんも体調が悪いと感じていると伝えたところ、すぐ福祉事務所へ相談するよう助言されました。地域柄もあり、河川管理している職員さんの声がけをきっかけに福祉事務所まで相談にやってくる人は、墨田区や台東区では日常的な光景といえます。

 福祉事務所の相談員さんも、Cさんの顔色の悪さをみてコロナ感染を疑ったそうです。体温検査をしたところ「問題なし」との判断となり、当日中の面談へと至りました。

 

 2.生育歴の聞き取り

 面談当初に感じた印象は、口数も少ないものの、ときおり見せる笑顔は苦しそうです。かなり疲弊しているのではないかと感じました。

 「疲れたら休憩するので申し出てください」という職員の言葉に対して、「大丈夫です」とかぼそい声で述べたあと、以下の生育歴を語ってくれました。

  生まれは東京都新宿区若松町だけれど、本籍地は覚えていない。新宿区立の小学校を卒業しているが、学校名は思い出せない。その後、A区立〇〇中学校(現存する中学校名)に入学した。中学生のときに両親が他界してしまったため、児童養護施設に入所した。その児童養護施設から通える中学校だった。高校へは進学せず、18歳まで児童養護施設で過ごした。そのあと千葉県内の職業訓練校塗装コースに入学し、卒業した。

 卒業したあとはS県T市の木工所に就職し3年勤務した。退職後は、同市の建築会社に転職、約20年従事した。土工から鳶までなんでもこなしてがんばったが、体力が続かず、辞めざるをえなかった。

 そのあと、(経緯はわからないのですが)、神奈川県川崎市内(あえて県市名を残しています)にて路上生活に突入します。それから手配師経由で、いわゆる飯場生活をはじめるようになります。

 手配師とは、建築現場などで働くための工員を手配することを生業としている人のことを指します。飯場とは、建築現場などと併設されている従業員用宿舎や食事等をとるたまり場のことを指します。

 Cさんはこの飯場暮らしが耐えられず、逃げださざるをえませんでした。そしてまた路上生活にへ舞い戻ってしまいます。いつのまにか手配師経由で飯場に行き、耐えられず路上生活に戻る、という生活を繰り返すような人生を過ごすようになります。

 そうこうして歳を重ねていくうちに、「手配師-飯場-路上」から「支援者-施設-路上」へと、流れはかわります。寝床や炊き出しのときに「支援者」から声をかけられるようになったのでした。C県I市内の無料低額宿泊所等に入居したのを皮切りに、1~2ヶ月くらいは施設で生活するものの、劣悪な環境に耐えられず逃げ出し、また路上生活に舞い戻るという生活を繰り返すようになります。

 そのあとのことはよく覚えていないそうですが、とつぜん墨田区両国近隣の河川敷で生活をはじめることになります。上野や白鬚橋などで行われている宗教団体や支援団体の炊き出しを利用しながら、路上生活を続けていました。

 そして最近にはいり、急に体調が悪くなってきました。そんなとき、東京都建設局の巡回職員から促され、墨田区福祉事務所まで相談にやってきます。

 

 3.生活状況の聞き取り

 生育歴についてはあいまいな点がかなり残っているため、本来であればもっとしっかり聞き取りをつづけるか、説明不足=支援困難を理由に入所拒否という対応もありえます。ですが、今回はCさんの体調を考慮し、これ以上の質問はしないことにしました。そのかわり、生活が落ち着いたところであらためて確認させてほしいとお願いし、了解を得ました。

 引きつった笑顔を見せているCさんの体調についても確認します。「からだがだるい」と「食欲がない」という訴えがありました。

 

 4.生活課題を明らかにする

 第2回目で説明した「やり-とり」をとおして気になった点は、以下のとおりです。

 ①小学校の名前が言えないこと

 高齢で認知機能が低下していても、過去のことは覚えているということは、一般的にも知られています。Cさんについてみると、中学校や就業先についてはしっかり覚えているにもかかわらず、小学校だけ言えないという点について不思議に感じました。

 この点については、経験上、3つの理由が浮かびます。

 ひとつは、いわゆる”ヤマの男”だからというものです。

 訳あって山谷や寿町へとたどり着かざるをえなかった者たちは、女性が源氏名をとおして夜の世界で生きるように、男たちも偽名で生き抜くことが少なくありません。つまり、あえて過去のことをあいまいにしているのかもしれません。

 ふたつめの理由は、体調によるものです。

 いまの顔色であれば、集中できないとしても致しかたがないと言えそうです。

 最後の理由は、転校を繰り返したため覚えていないというものです。

 児童養護施設に入所するまで、親戚や知人の家を転々とする人たちがいます。その場合、受け入れ先家族の住所がかわるごとに小学校もかわってしまいます。学校に通えても数日、場合によっては、通えなかったという人も現に存在しています。この結果、記憶があいまいというよりも、めまぐるしく状況が変化するため混乱し、覚えていないということがありえます。

 

 ②ヤマの男の可能性があること

 生育歴からして、日本3大寄せ場である山谷と寿町に関わっている可能性が高いと判断できます。「神奈川県川崎市内で路上生活していた」ということからして、港湾荷役労働者の街である横浜市中区寿町との関わりが推測されます。

 そうだとすれば、山谷という日雇いの街の暗黙のルールのひとつである、自分の「素性は聞かない/明かさない」、相手にも「聞かない/尋ねない」という規範が身についているかもしれません。

 だましだまし生きてこざるを得なかった人たちが、生活保護申請時において、自分の素性を洗いざらいつまびらかにしなければならないことに強い拒絶感を示し、忌避する理由がこのあたりあることは少なくありません。

 以上の理由から、面談時に「顔色が悪く」なったり、感情的になって途中で面談を拒絶したりということがあるのですが、Cさんについては、本当に体調が悪いために「顔色が悪い」のではないかという印象でした。 

 

 ③土工から鳶までやった

 仮にヤマの男だとすると、「鳶職をしていた」という発言は、とても重要な意味を持ちえます。"ヤマの男たち"という、なんだか屈強そうな言葉の響きとは裏腹に、その実態は、建築現場では荷物運びのようないわゆる"手元"と呼ばれる補助的業務しかできない、荷物運びですらままならない人たちが少なくありません※1。

 そんな"ヤマの男たち"のなかで、高所で颯爽と仕事をこなす鳶職は仕事に誇りをもち格好よく、羽振りよく、ほかのヤマの男たちとは違う憧れであり、"ヤマの貴族"と呼ぶにふさわしい存在です。自らを語るときに「鳶職だった」と述べることは、"自分は特別な存在である"という意味を含んでいることがありえます。

 残念ながら、いまのCさんからは、鳶職だっという風格は感じられません。本当に鳶職だったのかは、このさいどうでもよいことですです。それよりも「オレは鳶(にふさわしい人間)なんだから、こんなところで負けてられないんだ」と自らに言い聞かせているようであり、気力を失わないよう自らを鼓舞して生きようとしているようでした。Cさんの心意気を見逃してはいけないと感じられたのです。

 

 ④食事がとれないこと

 かなりの緊急事態ではないかと判断できるため、福祉事務所の面談中に、入所予定施設近くにある亀有病院に診察調整します。まずは生活保護上の医療扶助が利用できる指定医療機関か確認するとともに。Cさんについては医療要否意見書利用ができるので、確認の電話を入れます。あいにく当日診断は難しかったのですが、翌日であれば受診できました。同行通院することとします。

 

 ⑤よく覚えていないが、墨田区両国近隣の河川敷で生活をはじめる?

 長期間路上生活のなかで、過去のことを忘れてしまったのでしょうか。それとも説明することが面倒くさかった、あるいは話したくなかったのかもしれません。

 

  ⑥転々として逃げ出すことが多い

 どうやら手配師等により、だまされて生きてこざるを得なかった人生のようです。

 やり-とりに対する回答力からしても、境界知能や軽度知的障害を抱えている可能性がありそうです※2。

 

 ⑦顔色悪く、体調が悪そう

  医者ではないため診断できないのですが、歩くだけで息切れしており、かなり疲れる様子です。

 

 5.支援方針の設定と実施方法

 何はともあれ、どのような病気を抱えているのかを明らかにすることが急務ではないかと判断します。速やかに病院につなげ病状把握しなければなりません。

 すぐに病院予約の確認を行い、入院準備も視野に入れます。幸いなことに午前中診察であれば予約は必要なしと確認できました。歩行に困難も抱えているため、その場でケースワーカーに相談します。すると墨田区自立支援課と掛けあってもらえ、施設や入院した場合は病院まで出向いて介護認定調査を実施すると約束してくれました。

 

 6.支援展開

 〇1日目

 面談終了後、社用車を停めている地下駐車場まで向かいます。Cさんは数歩歩くと息切れし、見るからに辛そうです。職員が脇を支えて歩行介助して、休みながら移動します。振り返れば、福祉事務所で車椅子を借りればよかった。

 施設までの送迎途中にドラッグストアへ立ち寄り、OS-1や栄養ゼリー等を代わりに購入して手渡します。

 

 〇2日目

 診察開始直後の時間までに間にあうように早朝出勤します。

 当時はコロナ感染による混乱の真っただ中でした。診察開始前に亀有病院まで到着したのはよかったのですが、「コロナ感染検査後でないと、内科受診ができない」とのことでした。

 確かに昨日まで路上生活だったCさんについてであれば、感染症の保有を否定できません。かかりつけ病院として通院している方がたに対する安全を考えれば、致し方ない判断だと理解できます。病院の外で待たせてもらいます。

 お金がなくても、路上生活をしていても、病気かもしれないというだけで誰でも受診を拒まれない日本の医療制度は、近代の到達点であり、奇跡のように感じられます。

 別件のあった私は、職員ひとりを付き添いとして残して、その場を離れました。

 

 16時頃、病院まで迎えに来るよう職員から連絡が入りました。診察に至るまで、だいぶ時間がかかったそうです。結果として、「末期ガンの状態で、膵臓、肝臓、腎臓など複数臓器に転移が見つかった」との報告がありました。

 医師から「OS-1や栄養ゼリー」だけでなく、「固形物も食したほうがよい。ビスケットを食べるとよい」という助言がありました。

 Cさんは何も語りません。

 明日また診察することとなります。

 施設に戻る途中、コンビニとドラッグストアに立ち寄りましたが、あいにくビスケットは売っていませんでした。

 施設まで送り届けたあと、アリオ亀有店のショッピングモールのなかにKALDIがあること思いだし、立ち寄ってみました。レジ近くに小分けになったビスケットが壁際に垂れ下がっているのを見つけたので、一連分購入し、帰宅しました。

 

 〇施設利用3日目

 翌日は土曜日だったので、いつもであれば休日です。その日は再受診同行のため早朝出勤します。ありがたいことに施設担当職員も出勤してくれました。

 ですが、その日のCさんは顔面蒼白で、意識もうつろな様子です。起き上がることもできない状態でした。昨日「末期ガン」宣告を受け、最後の気力も使い果たしてしまったのではないかと思われます。

 救急車の手配が必要だと判断しました。玄関前に停めていた社用車を2軒先の畑前まで移動させ、119番に緊急通報します。

 到着した救急隊員もすぐに状況を察してくれ、亀有病院まで搬送してくれることになりました。担当職員も同乗します。出発直前に「探したらあった」と伝え、昨日買ったビスケットを手渡します。表情が一瞬明るくなりました。

 これで一件落着、といきたいところなのですが、一波乱ありました。

 昨日まで診断のはなしをすすめていた亀有病院が受入れを拒否したのです。ここまで手を尽くしてきたので腹が立ったのですが、恐らく、この判断は、地域医療圏提供体制、いわゆる医療圏、トリアージの問題ではないかと思われます。

 亀有病院では末期ガン患者に対応できる医療設備がない、つまり「手に負えないのでほかにあたってくれ」ということなのでしょう。しかもコロナ感染対応にも追われている状況でしたので、さらに受け入れが難しかったのかもしれません。決して、いわゆるコロナ補助金をもらうため、空き病床のままのほうがもうかるから受け入れないなんて、そんな判断をしたわけではないはずです。

 結局、救急車は1時間以上施設の前に停まっていました。やっと、A区にあるT病院が受け入れてくれることになります。救急医療の東京ルールで入院できたのかもしれません。

 尚、余談ですが、畑の前に社用車を勝手に停めていたら、その畑を所有する農家の方に「ひとんちのまえに車停めるんじゃねぇ」と、あたりまえですが、厳しく注意を受けました。ですが、見かねた近隣の方が「救急車呼ぶくらいの緊急事態だったんだから」と、仲裁に入って頂きました。さらに施設のお隣様から「空いている時間帯は、ウチの駐車場を利用してよい」とのご厚意を賜ることもできました。よい縁を取り次いでもらったCさんに感謝。

 

 〇入院から退院まで 

 病院先の看護師さんから電話がかかってきました。「末期ガンではありますが、比較的元気で食欲・体調ともに回復しています。Cさんの希望もあり、すみやかに退院とします」とのことでした。

 そしてもうひとつ。「自分はCではなく、本名はZだ」と告白があったそうです。死期目前になって、自分の本名を告げたのです。やはりCさんはヤマの男でした。偽名の件は、すでに福祉事務所とは情報共有されているとのことでした。

  Cさん本人の強い希望もあり、西水元寮へ再入所することになります。入院期間は20日間でした。

 ただここで、ひとつ問題が生じます。 

 私たちの施設はあくまで日常生活支援住居施設の認定を無料・低額宿泊所です。事務委委託費という名の運営費をやっと頂戴できるようになったとはいえ、他の社会福祉施設と比べるとはなしにならない貧弱な額です。他の社会福祉施設であれば設置が当たり前のスプリンクラーを取り付ける費用補助はなく、バリアフリーですら整えられません。

 運営補助といっても第一種社会福祉施設のように人件費と運営費が別区分ではないため、まともな給料すら支払える状況にはありません。資格があっても加算はなく、医師や看護師を雇用できる制度にもなっていません。

 末期ガンで死亡する場合、死亡時に吐血する可能性があります。吐血を前提とした居室ではなく、死亡した人に請求するわけにもいきません。清掃費用や修繕費はすべて自己負担、いわゆる持ち出しとなります。

 施設側としては、このようなリスクをふまえて再入所の可否を検討したいところなのですが、T病院は取りあってくれません。「そういうことはやっていません」と一方的に告げられ、退院後の環境調整にかんするはなししあいすら応じてもらえませんでした。

 やむをえず、T病院までCさんを迎えに行きます。

 Cさんは自力歩行ができるまでに回復していました。いわく「早く施設に戻りたかった」そうです。

 一見するとよい病院なのですが、院内には生活保護受給者だけが利用している病室があり、ほとんど寝たきり状態、いわゆるスパゲティ状態の患者が多数病床を占めていました。そういう人たちから医療扶助費を巻き上げて潤う病院だったようです。この一種異様な雰囲気に気づいて驚いたCさんが「早く退院したい」というのも、納得できる環境でした。待機中に私も院内を(勝手に)"見学"させてもらったので断言できます。貧困ビジネスの典型である"囲い屋"には病院も含まれるべきだと感じます。T病院についていえば、いまはそうでないことを祈るばかりです。

 

 〇施設再利用1日目

 退院直後のCさんは、問題なく自力歩行できていました。近くのコンビニまで他の利用者さんと一緒に出かけ、大好きな菓子パン数種類と、レトルトの「かにと卵の雑炊」を買って帰ってきました。ちなみに、路上生活者にとって、空き缶回収(資源回収と呼んだりします)で得たお金で、菓子パン、お酒、タバコを購入することは至高の喜びなのだそうです。自分で稼いだお金で買うことは何ものにも優るのでしょうか。

 

 〇2日目

 職員が冷蔵庫を確認すると、なんと缶チューハイが入っていました。昨日買い物に行ったときに購入し、こっそり他利用者さんに運んでもらっていたようでした。悪知恵が回るほど気力も体力も回復していることは喜ばしいのですが、服薬との相性の問題から、「飲酒は禁止」と厳しく伝えます。   

 

 〇3日目

 急に体調が悪化したため、病院を探します。頼りになる近隣病院では相手にされない可能性があるため、最後の頼みの綱である済生会向島病院に電話します。診察可能と返答があったので、すみやかに通院同行します。

 かなり待ったのですが、その甲斐あって、医師からは以下のとおり、診断を受けました。

 ・固形便が詰まっているため、押し出そうとして腸が活発に動いているためにおなかが痛い。

 ・腸の動きを緩やかにする薬と吐き気止めを処方する。

 ・食事がとれていないので脱水することがこわい。

 ・脱水しないように点滴を施行する。

 ・ここまで癌が進んでいる場合は、泌尿器科で見てもらうことになっている。

 加えて、「痛みのコントロールのためにも入院したほうがよい」と助言してもらえました。

 ところが、Cさん本人は「病院は嫌だ。施設がいい」とダダをこねはじめます。T病院での一件で懲りたのか、入院に対して強い拒絶感を示すようになってしまいました。

 Cさんを落ち着かせるためにも、致し方なく今日は施設に帰ることにします。医師からは「来週の月曜日に予約を入れておくので、それまでに考えておいて」と言ってもらえました。Cさんがトイレで外しているあいだに、医療相談員から「病状から判断して、恐らく入院になるので準備しておいてほしい」との治療方針を、こっそり教えてもらえました。

 

 〇4日目

 本日は土曜日だったのですが、Cさんの様子が気になり出勤します。

 「強い痛み止めを飲んだから、今日は調子がよい。パンも食べられた。明日は日曜日だから、顔見せに来なくても大丈夫だよ」とのことです。言い換えると、鎮痛用のモルヒネを自己投薬しなければならないくらい病状は悪化しており、Cさんは麻薬のおかげで楽に感じているだけです。やはりこれ以上の施設利用は難しいと判断せざるを得ません。

 入院について説得を試みますが、「病院よりここ(施設)のほうが居心地いいんだよね。でも、入院しないとダメかなぁ」と、気持ちの整理がつかないようでした。 

 

 〇6日目/再入院

 済生会向島病院まで送迎します。一緒に待合室で座っていると、とつぜん吐き気を催しだしました。すみやかに嘔吐用のビニール袋を渡します。何回もえずいてはいるのですが、嘔吐までには至りません。

 「じつは食べてないから吐き出すものがないんだよね」とのこと。どうやらモルヒネ投薬した土曜日のみ元気だっただけで、昨日からはすこぶる体調悪化していたようです。

 なんとか診察までこぎつきましたが、開口一番「入院でお願いします」と、Cさん自ら申し出てくれました。「病床は確保してあるので安心してください」と、医師もやさしくこたえてくれました。

 入院準備をしたあと、職員が帰寮しようとすると、看護師さんから「入院期間は1週間程度を予定しています。詳しい日程がわかったらまた連絡します」と情報共有してくれました。

 

 〇再入院翌日

 済生会向島病院の医療ソーシャルワーカーから「Cさん「施設に帰りたい」と何度も申し出るている状況のため、1週間ではなく4日で退院とさせてください」と電話がありました。

 「私たちの施設は無料・低額宿泊所であり、そもそも貧困ビジネスと揶揄されてきた事業体です。そのため支援を行う仕組みが制度的にも施設装備的にも整っていません。施設側でもできうる限りCさんを受け入れて対応したいのですが、運営上の限界があり、24時間常駐体制も組むことができていません」と、こたえざるを得ません。

 Cさんは、すでに自力で排泄ができる状態になく、食事も介助が必要となりつつありました。受入れ施設の担当職員は「看取りまでを視野に入れて支援をつづけたい」と申し出てくれていましたが、職員ひとりが燃え尽きてしまうと施設閉所せざるをえない小規模団体です。支援と運営を天秤にかけ、Cさんの支援は限界だと判断せざるを得ません。

 とはいえ、Cさんと担当職員の気持ちも尊重したいと考え直し、「緩和ケア病棟入院までの一時利用を条件に再入所を認めます。元路上生活者ということで緩和ケア病棟の受け入れが難しい場合は、山谷に"きぼうの家"があるので調整をしてもらいます」と落とし所を示します。

 その他の医療機関であればここではなしは終わりとなるのですが、さすが恩賜財団済生会、 「それじゃ、訪問看護とか医療とか、あとは介護サービスとかは使える施設ですか?」と、病院側から提案してくれました。

 私たちの施設は、端的に言えば、単なる部屋貸しにすぎません。それゆえ、居宅生活と同じように、訪問医療・看護・介護を導入することはできます。ですが、医療機関や社会福祉団体からはまともな施設としては見なされていないため、福祉事務所に相談しても取りあってもらえない状況にあるという実情を伝えました。

 すると「それじゃ、病院側で手配します」と、事もなげな様子で、いったん電話は切れました。

 退院日が決まったので、あらためて居室内清掃し、施設に残してある衣類を洗濯しておきます。

 

 〇再入院翌々日

 ふたたび済生会向島病院の医療ソーシャルワーカーから電話がありました。「墨田区福祉事務所と調整して、本日介護認定調査を病院内で実施します。また退院後の訪問診療およひ訪問看護の調整も完了しました。あ、あと、施設のある地域包括センターにも連絡してあります。"みなし※2"で介護サービス利用できるようにしてあります」とのことでした。

 これまで、施設職員がお願いしてもまったく動かなかった医療サービスや介護サービスがいとも簡単に調整されたという報告に、あっけにとられるほかありませんでした。気を取り直してお礼の言葉を伝えます。感謝しかありません。

 

  〇退院日/再々入所1日目

 済生会向島病院まで迎えに行きます。

 医師からは「できるだけ早急にターミナルケアが行える施設に移動させた方がよい」との助言を頂きました。

 情報共有用に受け取った看護サマリーには「ご本人には(末期ガンのことを)ありのままに伝えている」との記載がありました。Cさんからも「余命3ヶ月だって言われた」と淡々とした口調で教えてもらえました。 

 その他、看護方針として以下の2点について注記があったので、私たちも参考にします。

 1.急性疼痛:継続して疼痛状況観察し苦痛緩和に努めるように

 2.成人転倒転落リスク状態:転倒リスクに注意すること

 

 そのあと、職員だけ別室に呼ばれ、医師と看護師から改めて説明がありました。

 「肝臓がかなり腫れています。この場合、徐々に病状が悪くなるのではなく、突然、痛みが増してその日になくなるケースも珍しくない。最悪、明日からの土日でなくなる可能性もある」「本人の意識もしっかりしていて動けるうちに施設移動した方が、わたし個人としてはよいと思います」との助言を頂きます。

 帰寮中、福祉事務所の担当ケースワーカーさんから「緩和ケアとして「きぼうの家」さんとはなしはつけてある。いつでも利用可能な状態で、あとはCさんの気持ち次第です」との電話が入りました。つづけて「済生会向島病院の医療ソーシャルワーカーさんのはなしだと「あさひさんは看取りまで対応してくれる」とのはなしだった(ので、きぼうの家さんの入所調整は保留にしている)」と、電話がありました。

 「Cさんから「ギリギリまでここ(施設)にいたい」という希望があり、担当職員もそうしたいと申し出たため受け入れることにしました。施設移動のタイミングは追ってお伝えさせてください。仮に施設移動調整中に施設内で逝去した場合は、やむを得ないと考えています」と回答します。

 正直にいえば、これはCさんの希望というよりも、Cさんの担当職員の覚悟に寄り添った結果の判断でした。

 Cさんにも現状と今後の方針を伝えておきます。「ここの施設に入れただけでありがたいことだ。(施設移動については)わかりました」と、同意してくれました。

 先日入院していたT病院から請求書が届いていました。今後のことも見据え、金銭管理を締結し、生活費等は施設職員が管理することとします。

 

 〇2日目

 今日は土曜日なのですが、特別出勤としました。T病院退院のときとは雲泥の差で、再入所日当日から訪問医療や看護が利用できるようになりました。

 やはりトイレ移動もままならないのですが、Cさんは「自分でやりたい」とのこと。いそいで百円均一のお店に向かい、室内でも利用できそうな杖を2本購入し、補助杖としてCさんに手渡します。

 看護師さんによると「昨日よりも体調も気持ちもよさそうだ」とのことでした。その看護師さんがとても明るく朗らかだった方なので、その影響もあるのかな?と感じます。

 路上生活から一転、いまではいろいろな人から励まされ、気にかけてもらえる存在になっています。

 

 〇3日目

 今日も訪問看護サービスを受けます。「おにぎりが食べたい」「おかゆが食べたい」と希望があったので、そのつど施設職員がコンビニまで買いに出かけます。調理して食事をだしても、お茶碗半分程度しか食べられない状況にまで陥っています。

 

 〇4日目

 出勤一番、様子を確認します。「昨夜、気持ち悪くなることがあったけど、今日は大丈夫そう」とのことでした。ですが、明らかに顔色が悪くなっています。

 これ以上は限界だと判断し、福祉事務所ケースワーカーに施設移動調整を依頼します。

 「OS-1を買ってきてほしい」と希望あり。

 購入後、Cさんに手渡します。「あれ? さっき買ってきてもらわなかったけ?」「なんか記憶もあいまいになってきた」とのことでした。表情もかなりうつろな印象を受けます。

 ケースワーカーから「きぼうの家の入所日が決まった」と報告があり、あさっての午後入所となりました。

 

 〇5日目

 朝8時出勤直後、Cさん居室に顔を出します。ベッドの脇で仰向けになっているCさんを見つけました。トイレに行こうとしたら転倒し、そのまま立ち上がれなくなっていたそうです。失禁していたので清掃し、衣類の脱着を手伝います。洗濯機を回したところで、あらためてCさん居室へ戻ります。昨日の夕食用に準備したおかゆは手つかずのままでした。

 「食べる気がおきない。薬も飲めてない」とのことです。「せめて痛み止めだけでも飲めば?」と伝えたのですが、気乗りしない様子でした。

 今週にはいり、急激に体力の衰えが目に見えて顕著となってきました。すでにトイレも自力では通えずにいます。転倒防止のため、おむつ着用をお願いします。Cさんもあっさり認めてくれました。おむつはきを手伝います。

 訪問看護が到着したので情報共有します。

 看護師対応後、「お昼の薬は飲んでくれました。夕方の薬は痛み止めが含まれているので、かならず飲むように声がけをお願いします」との申し送り事項を情報共有します。

 施設移動をすすめるにあたり、訪問医療及び看護も引き継ぐので、その旨、看護師さんに伝え、確認をとります。

 夕方、職員退寮まえに、薬を飲むよう声がけします。「うん」と返事はあるのですが、体が動かないようでした。体を起こして、薬と水を飲めるように介助します。なんとか飲んでくれました。「明日からは、Cさんがもっと楽に生活できるようになります。いましばらくの辛抱です」と声がけして、職員は帰寮します。 

 退院時に投薬用のモルヒネを預かり、施設側で管理していました。ですが、Cさんは「その薬は使わない」と投薬拒否を続けます。末期ガンが全身転移しているということであれば、体がだるいという次元ではなく、かなりの激痛があったはずです。ですが、「痛い」「苦しい」という言葉は、最後までひと言も発しませんでした。

 いなにまって振り返ってみると、Cさんは誰よりも我慢強い人だったのか、それとも「痛み」という感覚と「痛み」という言葉が結びついておらず、「痛い」という概念が身についていなかったため、表現できなかったのかもしれません。

 

 〇6日目/施設移動当日

 施設移動日、つまり、退所日当日にあたります。これまでの経緯もあり、職員が介助して社用車で移動すると事前に取り決めていました。ですが、Cさんはすでに歩行困難な状態で、上半身を起こすこともできない状態に陥っていました。

 最後の訪問に来てくれた訪問看護師からも「いまの状態だとストレッチャーで移動させないと、移動自体が難しいと思います」との助言がありました。

 ケースワーカーに電話し、急ぎ介護タクシーの手配を依頼します。いくばくかのすったもんだが繰り広げられたあと、最終的には調整して頂けることになりました。

 施設側からの突然の申し出に対し、施設職員が業務を丸投げしているのではないかと、ケースワーカー側からすれば半信半疑だったのかもしれません。

 Cさんと施設担当者は介護タクシーに乗り、きぼうの家へ向かいます。私はCさんの荷物を社用車に乗せ、きぼうの家に先回りします。きぼうの家の居室にCさんの荷物を事前に並べておくことで、少しでも安心してほしいと思ったからです。

 先回りしてきぼうの家に向かい、さきに荷物搬入を完了しておきます。

 搬入完了後、担当ケースワーカーも駆けつけてくれました。公務員というよりも、ヨーロッパの自転車選手のような出で立ちでやってきたので、少し驚きです。ケースワーカーさんは、まだ、施設職員に振り回され(て、きぼうの家の入所調整や介護タクシー利用の手配をさせられ)たことを、根に持っているような雰囲気を漂わせていました。

 気まずい雰囲気が流れるなか、Cさんを乗せた介護タクシーが到着します。

 玄関前で出迎えてくれている、きぼうの家の職員さんが車椅子を用意しています。ですが、全員女性職員ということもあり、ストレッチャーから車椅子まで乗り換えさせることができません。状況は予想していたので、施設職員側で介助して乗り換えさせます。この光景を見て、ケースワーカーさんもやっと状況を把握でき、今回の手配を納得してくれくれました。

 Cさんやケースワーカーさんと一緒に居室まで移動します。すでに荷物が置いてある光景をみて、Cさんよりもケースワーカーさんが驚いていました。車椅子からベッドに移動させるときも施設職員側で介助します。

 こうして、施設移動は無事に完了とあいなりました。

 

 その5日後、Cさんは逝去されました。

 

※1 そのほどんどが、いまでいうところの知的障害や境界知能のような知的能力上の障害特性をもっているにもかかわらず、福祉的な支援につながらず、最終的には"ヤマ"でのみ受け入れられてきたように肌感覚では感じられます。

※2 だとすればWAIS知能検査等を試してみればよいという考えかたもあるかもしれません。ですが、仮にIQ70以下で知的障害と認められる閾値を超えていたとしても、実質的な意味はありません。現行の知的障害者の認定制度からすれば、幼少期からそうであった証明ができない限り、知的障害手帳を取得することができないからです。

 社会的に排除されがちな人びとを救うべき社会福祉の理念が、制度的には排除する人びとを生み出しています。その意味で、山谷のようなドヤ街や矯正施設こそが、排除された人びとを支える最後の(そしてインフォーマルな)社会福祉制度だと言い切りつづける由縁がここにあります。ここ最近は、知的障害に該当しなくても"発達障害"として精神障害の区分により"障害認定"してもらえる方法が浸透しています。ですがサービス実態として、知的障害者向けサービスを利用できる範囲はかなり限られていると言わざるをえません。

※3 通常であれば介護認定調査結果をふまえて、各種介護サービス利用が検討されるのですが、緊急度をふまえ、結果前にサービスを利用できるようにする現場の知恵です。

 

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コメント: 1
  • #1

    のぶた (土曜日, 28 9月 2024 18:20)

    菓子パン、酒、たばこ、私も大好きです。いまは たばこは 止めましたが自分はどう死ぬのだろうか?と考えたくないけど時々考えます。生きてる限りは 私も世の中のためになることを 少しでも取り組みたいと思いました。投稿ありがとうございました。